よしなしごとダイアリー

日常のあれこれをああでもないこうでもないと考える

かぼちゃの天ぷら

今日からコスメ雑貨担当です。もともとシャンプー石鹸担当していたので、何、楽勝ですがな。

 

最初の仕事は、まず陳列台帳に登録して端末で発注できるようにしてくださいですと。

登録なしにはGOT(グラフィックオーダーターミナル)でポチポチっと商品の発注ができませんわな。その前に商品整理と補充をしなくては。

 

 

石鹸の整頓してたら棚の奥から食品が出てきたんですよ。かぼちゃの天ぷらが古くて変色してるやん!だれやねん!こんなところにかぼちゃの天ぷら入れたの!

 

そこへ店長が通りかかってですね、

「どう、この場所、売れてる?」

「あのう、私今日初めてなんでわかりません」

 

でもかぼちゃの天ぷらが放置されてるくらいだから、あまり売れてなさげではあります。

 

今日でサヨウナラ

7年過ごした介護用品売り場から、明日は家庭用品に移ります。

今日新しい制服もらったのよ。といっても昔はこれ着てたんだけどネ。イッツリターン。赤いストライプが食いだおれ人形を連想させます。総務の人が古い制服は回収してクリーニングして、代金を請求するというのですが、

「これもう首周りが擦り切れてて、クリーニングはしないほうがいいと思います。だって7年も同じの着てるんだもの」

「じゃ、捨てて」

わーい、クリーニング代ただになった。

 

 

新人さんには感謝のお手紙もろた。いつも優しく穏やかに接してくれてありがとう・・・、って誰のこと?

教えられるぶんは教えたので、あとは自分で身につけてくださいな。

 

最後に相方に挨拶するべきかと思いましたが、口から

「あなたに追い出されて明日は違うところに行きますぜ、これで満足かよオラオラオラ」

などといろんなものが出てきそうだったのでやめておきました。移動の件もあなたから話はしなくて結構ですと言われてたもんね。

旧マネージャーと新マネージャーに挨拶して、引き出しの私物や書類を移して、はい、移動完了。簡単なもんです。

 

 

帰り際、

「わたし、あしたから家庭用品ですのでヨロシク」

と言って去りました。こんなところです。おあとがよろしいようで。

 

ヘアカットは裁ち鋏

新人さんは私よりひとまわり以上年下ですが、波乱万丈の人生であらせられます。

 

結婚してしばらくしてから、義理の父母と同居を始めたところ、これが稀代の鬼婆でありました。

 

嫁が美容院へ行くことも許さず、髪を切りたいというと、風呂場へ連れて行って、姑が裁ちバサミでおかっぱにしてくれるそうだ。姑の目を盗んでこっそり美容院へ行くと、数時間家を留守にしたときつく叱られる。

 

オットは何をしてるかというと、「髪切ってもろたんか~」というだけだとか。なにそのエネ夫。役に立たん事この上ない。

 

赤ん坊が生まれても「触ってはいけない」と、子供を取り上げてしまう。嫁が自分の子供を可愛がることも許さないのであった。江戸時代の話かと思ったよ。

 

そして嫁にはパートを3箇所掛け持ちさせて働かせるという、現代の話とも思えない鬼畜の所業。朝は新聞配達、昼は食堂、夜はスーパーのレジ。朝から晩まで働いて、まるで奴隷。さらにもう一箇所、パートの申込書を差し出されたとき、この家を出ていこうと思ったそうです。亭主とその親どっちも捨てて出てきたそうです。

 

 

いやいやいや、

それはちょっと遅いんじゃないかと思いましたが、あまりに理不尽な目にあうと、人間抵抗すらできないものらしいですよ。

あと5日

もうすぐ11月でございます。

 

 

売り場の相棒が勝手にシフト替えてきてしまったという話の後日談です。

 

最初の日は一日だけのことかと思ったので、

「あの人どうして早いんですか?」と聞かれても

「用事でもあるんじゃない?」

としか言い様がナイのであります。

ところが毎週早出のようである。朝出勤したらふつうに朝からいるじゃない。

契約を変更したらしい。らしいとしかわからないのは確認するのが嫌だからである。

話をするとまた逆ギレされそうだからやめとくわ。

 

昔は『忙しい日は早出して欲しい』と頼んでも、

「午前中はテニスの練習してるので、早く来ることはできないの、今でもギリギリ。無理」

と、私生活優先仕事は二の次の人だったのである。

さてはテニスサークルやめたのか?

あのテニスサークルにはお友達がいていつも野菜もらってたじゃないか。

そのお友達が売り場に来て、買い物もしないのに長々と話し込むのはいかがなものかと思っていたが、たいてい私がいない時に来るので、どうでもいいことでしたが。売り場ではお友達は「4時から男」と呼ばれていて有名だったのよ。

 

 

シフト変更の件については、新人さんに

 

「11月から一人で売り場に立つのは大変だから、水曜日は朝から私が来てあげる」

 

というように説明しているのだと聞いて目が点。フッ、笑かしてくれるやん~。

 

 

 

 

売り場が変わります

今日は今週始まる単独セールの準備で、商品が大量に入荷し、半トン台車で7台ありました。全部出すのに4時までかかったわ。10キロもあるようなダンボール抱えて積み上げるのは体力いるしな!エンヤコラ!

新人さんは採用の面談で、

「何しろこの売り場は忙しくないから、お客さんと世間話してもらったらいいから」

と言われたそうで、

「話が違う」とぼやいてました。

それにPOP作って売り場作って配達出して、いろんなことやらされるんですよ。

「今までの仕事の中で一番時給が安いのに、することが一番多い」とも。

 

さて、昨日の話では、次は一体どこへ行くんだ?でしたが、今日行き先が決まりましたよ。

今朝、総務マネージャーから今日帰る前にお話があるから寄ってね、って言われて、ドキドキワクワクして待っておりました。

で、11月1日から古巣の家庭用品売り場に行くことになりましたわ。

 

8月の時点で、前店長との話では、「今家庭用品も人は足りてる、実はね、今、惣菜売り場が人が足りないんだけど」ということでした。

 

えええ~っ、海苔巻き作ったり天ぷらあげたりするところかいな。たまに手伝うのはいいけれど、仕事内容変わりすぎじゃないすか。料理なんて毎日うちで作るぶんだけでたくさんじゃ。

 

「いや、そこまでは~。食品売り場までは考えてないんで・・・。できれば登録販売者の資格が活かせる薬品売り場か、古巣の家庭用品がいいです。それ以外でしたら、このお店でタダで資格取らせてもらったので、ここをやめて、登録販売者でドラッグストアにでも勤めようかな~、と」

とにかく、婉曲にお断りを入れましたです。

前店長「やっぱりね」

 

その後、家庭用品のパートさんがやめて、シニアになって契約休日を増やす人有り、さらに130万円の壁で収入を調整するため休むパートさんが増えして、足りてるはずの人員がいなくなり、家庭用品から「早くこっちに来てよ」と言われるまでになりまして、、、、。前店長がいうほど、人が足りてる職場でもないのよね。

 

洗剤や収納用品、家電製品などがあって、マネージャーは「男手が欲しいんだよ」とおっしゃってましたが(マネ以外全員女性)、なあに私でもそこそこやれますぜ。お任せ下さい。

 

11月からではありますが、新しい職場(元の職場?)でがんばりたいと思います。

 

 

秋だなあ

お久しぶりです。はてなブログ、まだなくなってないので安心しました。いつまで取っておくべきだろう?

 

さて、アメブロで同僚のネタを書いたらクレームをいただき、ややネタが自粛気味です。

 

同僚が休み時間を規定より多く取るのを注意したら、

「なんでいちいちそんな細かいこと言うの!」

と逆ギレされたのがそもそもの発端です。遅番の時もしばしば遅れてくる。こっちは交代して昼の休憩とるのを待ってるんだ、早く来いや~!とか思いつつ口には出さず。そのうち向こうから近づいてこなくなりました。話もできないのでジュリーライブのため休みを取るのにカレンダーに印をつけておいたら、カレンダーを見たらしく、

「勝手に断りもなく休みを入れた、私も予定があるので勤務の交代はできない」

とコミュニケノートに書いてきたのであります。まだ数ヶ月も先のことまで・・・。こちらもあほらしくなったので、ジュリーライブは有休取らずに早退けで済ますことにしました。

 

ネタにしてアメブロに書いたら、同僚もブログを読んでいたらしく、ここから急展開。

 

かつてお友達と京都に旅行に行って芸妓姿の写真を撮ってもらったといって見せてもらったことがありましたが、これがおじいちゃんでして、今はお元気かどうか存じませんが同僚といわゆる仲が良かったので、度々出かけていたらしい。おもろいやないかというてチクワネタにしたところ彼女の逆鱗に触れたというかなんというか。(ほんまやったんか)

 

同僚は店長にブログを知らせ、存在が知れることになり、三者会談の後、「このような不名誉な記事を書かれては私は我慢できません。来年には主人も単身赴任から帰ってくるし、事実と違うことを書かれて、大変困っています。oomesikuraiはもう尊敬できない、一緒に仕事はできない。そして私はこの売り場が大好きで、定年になってもシニアでずっと勤務したい、なんなら週六日勤務でもいい」と言われて、あっけにとられる私。腹を割って話をしなさいという店長に、もう結構ですと断りました。で、私が売り場を出ていくことになりました。

別に尊敬してくれなくても結構ですが、ブログが店長の知るところとなったのは痛かったわあ。

 

 

代わりに新しいパートの新人さんが入りましたので、引継ぎが終わり次第私はよその売り場に行く予定です。良い方が来てくれてよございました。

 

それが9月初めのことなので、ほぼ引き継ぎも完了したのですが、いまだに私が何処へ行くか指示がないのでございます。宙ぶらりんです。

 

同僚はなぜか水曜日は遅番をやめて朝から来るシフトに契約変更したっぽいです。こちとら契約変更とは聞いてないので、結局朝から三人パートが雁首揃えているという勤務状態ですがな。人件費がもったいないではないか。

 

マネージャーになんでこんなふうにしたのかと聞いたら、「え?それは問題だね」と。「僕から彼女に話ししておくから」知らなかったんかいな?

 

同僚が私に断りなく、勤務時間変更の契約するはいつものことです。事後報告でいつももめるんだ。前の担当者の時にも勝手に特約で「祝祭日は休みとする」に丸をつけて契約書を出したことがあって、前担当が「むかつく~」と言っていたのを思い出したよ。

 

ほかの同僚のみんなには

「あなた、よく我慢したよ」

といわれつつ、この売り場を去ることにいたします。(しかし、いつになるんだ)

 

後任の方には、この売り場は二人しかいないので、なるべくもめないようにして欲しいと思うのであった。よろしくね。

 

 

 

 

 

 

 

加橋かつみ

ウィキの原本



http://dictionary.sensagent.com/%E5%8A%A0%E6%A9%8B%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%BF/ja-ja/



略歴
ザ・タイガースのリードギター担当。タイガース在籍時代は澄んだ美声が評価され、シングル『花の首飾り』『廃虚の鳩』やアルバムでリードボーカルをも務めた。またグラフィックデザイナーを志していたこともあり耽美主義(唯美主義、審美主義、退廃的)な思想も相成ってグループの衣装をデザインするなど、バンドとして欠く事が出来ない存在だった。再結成時のヒット曲「色つきの女でいてくれよ」でもリードボーカルを務めた。その我侭で怠慢な性格から遅刻やステージの放棄など問題行動が多く、「ザ・タイガースブライアン・ジョーンズ」とも評され、特に現在に至るまで続いている沢田との不仲は当時からバンド内で大きな問題となっていた。

タイガース人気が絶頂を迎え、過密スケジュールが続き休みも取れないようになると、次第に「アイドル」としてのタイガースの在り方や事務所の方針、そしてその様な自分たちを受け入れ事務所の意向に忠実であろうとするメンバー(特に沢田は当時、マネージャーから『時計の針の様な男』と云われていた)への反発心を強めていく。この頃からメンバーやスタッフに脱退の意向を漏らすようになり、この件に対してミーティングの機会が増えていくようになる。

1969年3月5日、渋谷・斉藤楽器でのレッスン中に突如行方不明となり、ザ・タイガースは後任メンバーが決定するまでの間一切のスケジュールをキャンセルし、箱根に所有する渡辺プロダクションの別荘に篭り活動停止を余儀なくされる。そのまま加橋はタイガースを除名となり、結果として後任にはベース・岸部一徳の弟、岸部四郎がメンバーに決定。

当初は自発的な失踪と見られていたものの、後に加橋の意向を受けた渡辺プロダクションの画策による茶番劇だったことが発覚し、渡辺プロは謝罪会見を開く。加橋自身の意向とはいえ、アイドルとして一定の人気があった加橋を事実上解雇することでザ・タイガースの人気へ影響することを恐れた渡辺プロが、次なる加橋の受け入れ先としてフィリップス・レコードとの契約を取り持った上で「加橋の自発的失踪」という体裁を繕おうとしたものだった。ただし、この計画は極秘事項として加橋以外のメンバーおよびスタッフには全く知らされる事なく実行された。その為に他のメンバーは非常に困惑し、特に加橋と同じ様な疑問や思想を抱いていた瞳みのるにとって他のメンバーとの間に軋轢を生むきっかけとなってしまう(瞳も同年5月にヨーロッパへの失踪を試みるも、羽田空港で忘れ物に気付き自宅マンションへ戻った際、瞳を捜しに来ていた中井マネージャーと岸部一徳に鉢合わせしてしまう。2人より『9月に解散発表をするから!』と説得され『ここで辞めたら自分の負けとなる』と悟った瞳は、理不尽な渡辺プロ側へ謝罪し事態は穏便に終息する。渡辺プロ側は沢田以外の代わりは幾らでも居るという強硬姿勢だった。恋人だったフランス人女性が帰国した直後で、その事が行動を一気に加速させる要因でもあった)。

その後は母と共にパリに渡り、アルバム「パリ1969」を製作。同時に芸能雑誌にいくつかの手記を発表。「タイガースがやった仕事は『ヒューマン・ルネッサンス』(メンバー自作曲を含むコンセプトアルバム)だけだ。」「アイドルになんかなりたくない。」「僕は世界に通用する本物のアーティストを目指す。」といった言葉を残す。

帰国後、自身の夢をかなえるかのようにミュージカル「ヘアー」の日本版の製作・出演などを果たし、ソロアーティストとしての活躍を期待されるが、「ヘアー」公演中の1970年に大麻取締法違反容疑で逮捕(桜田門の警視庁へ留置されるも不起訴処分)、この件以降メディアが挙って書き立て人気は大きく下降し、所属先であるフィリップス・レコードは加橋の扱いに慎重となる。

1971年1月24日の日本武道館に於けるザ・タイガース解散コンサートの楽屋に突如現れ「花の首飾り」を歌わせてもらうことを懇願するも特に瞳みのる沢田研二の猛反発に遭い、出演は叶わなかった。

翌1972年初めには数ヶ月の家賃滞納、食事は大衆食堂(六本木食堂)でどうにか済ませられるという状況まで経済的に困窮する。

1975年 には、困窮の限界に達した加橋を見かねた元ザ・スパイダースのベーシスト加藤充の紹介で北島音楽事務所に所属し「哀哭」で演歌歌手として再デビューするも、1971年頃より顕著となった声の衰えもあってヒットはせず、翌年に解雇される。

以降、地道に歌手活動を続け、NHKのアニメ『ニルスのふしぎな旅』の主題歌や、フジテレビ系幼児教育番組『ひらけ!ポンキッキ』のオープニングテーマ『青い空白い雲』とエンディングの『かもめはそらを』などを歌い、以降現在までにシングル11枚・アルバム6枚をリリース。

1989年、タイガース・メモリアル・クラブ・バンドを森本太郎岸部四郎らと結成。

さらに、沢田研二のものまねでおなじみの岩本恭生ザ・タイガースの元メンバー・森本太郎岸部シローザ・タイガースマニアというバンドを1993年に結成し、「涙のロマンス」をリリースした。

経済的事由等に因り、1980年代後半頃からいわゆる懐メロ番組に出演して「花の首飾り」「廃墟の鳩」といったタイガース時代の持ち歌を歌うことが多くなる。しかしタイガースが嫌で脱退しメンバーやファンに対して大きな混乱を招いた加橋が、「元・タイガース」を前面に出し、あたかも「タイガースの顔」であったかの如くテレビとイベントの出演を繰り返すことに、元メンバーはおろかファンからの風当たりも強く、現在では僅かに交流があった森本太郎岸部四郎からも疎遠となっている。

ブライアン・ジョーンズ
http://www.eonet.ne.jp/~radical/yousetu03.htm

加藤充さんのインタビュー

http://www.geocities.jp/h_ichikun/kato5.htm



「そうしている内に、北原さんから、北島さんの手伝いに行ってくれと言う話になりまして、行ったら、丁度弟の大野専務が独立する準備をしていまして、(事務所の)絨毯張からやりました。そのうちにこっちの仕事も手伝ってくれと言うことになって、掛け持ちみたいになりました。

H:そのときに、加橋かつみさんが北島事務所に行ったんですか。

K:トッポを紹介したら、大野さんと意気投合してしまって、お互いの暗い過去の話になったり、「海の青さと空の青さは違うんだ。」なんて話になってきて、とても付いていけませんでしたよ(笑)

そのうちに北原じゅんさんが怒っちゃったんで、両方とも止めました。その後、アイジョージさんのマネジメントもやったんですが、最後の方は段々とちょっとね、やばくなってきたんで、半年で止めました。それからサラリーマンになったんです。

I:音楽関係の仕事はそこで終わりになったんですか。

K:北原事務所の時は新人を売り込むためにマチャアキに名前付けさせてグラビアの1ページに出したりとか、頑張ってやってたんですが、「カッペちゃん、なんかうろうろしてて目障りでいやだよ。」なんて嫌み言われちゃって、じゃあもう止めてやるって。その後ホテルの支配人とか紹介してくれたんですが、断って、自分で探すと言いましたね。他の人に迷惑掛けたくないからって。」





電脳サブカルマガジン 吉田豪 岸部シロー

http://www.ocn.ne.jp/game/og/go_yoshida/200707/index.html



68年発売のアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』ってまさか? ……と思って岸部シロー取材時に聞いたら、それは無関係だった模様。
そして、トロッグスの『恋のワイルド・シング』(大仁田の入場テーマの元ネタであり、ガレージの名曲!)をどうカヴァーするかで乱闘したり、遅刻の多いトッポとジュリーが殴り合い、「それ以来、2年ぐらいの間、沢田と口をきいたのは2、3度ぐらいでした」(トッポ)なんて確執があったりで、69年にトッポが脱退。代わりに岸部シローが加入し、71年に解散したわけだ。
中略

なお、巻末の森本太郎編集による年表も「66年12月15日、ピーの創価学会のことで中井マネージャーとミーティング」「67年11月3日、地方公演(高岡市)。この日は、トッポが朝寝坊をして公演地にとうとうこれなかった。プロのタレントとしては最低のことだと思う」「69年5月16日、ピーが突然蒸発しようとしたことが発覚して、中井マネージャーとサリーが説得」「69年7月15日、会社にボーナスを要求したが、結果的にはダメだった」なんてのが並ぶ異常なガチぶりだったりもする。最高!」



http://hanahuurin.blog62.fc2.com/blog-entry-414.html

加橋かつみインタビュー

http://www.geocities.jp/yoikonogs/(呆麒麟堂へようこそムーンナイトライブバックナンバー)



加橋かつみさんインタビュー
「もしもしー?」
「もしもーし。」
「かつみさーん、どうもお久しぶりでございます。」
「こんにちは。久しぶりだねぇ。」
「はい。去年のライブ以来で。」
「ねぇ。元気ですか?」
「はい、元気にしております。かつみさんも元気にされてますか?」
「元気ですよぉ、楽しくやってますよー(笑)」
「楽しく(笑)ね、あの、スーパーアイドルだったかつみさんに
電話させていただいてるわけですけども今日は。あの、一応GSアイラブユー
っていう番組なんですがやはりね、やはりGSといえば何を言ってもタイガースですから。」
「ありがとう。」
「あの、かつみさんね、ちょっと簡単でいいんですけどもタイガースの結成の歴史
なんていうのをありましたらあの、流れというか教えていただきたいんですけど。改めて。」
「タイガースの結成の歴史ですか?えぇ〜?随分古い話だね。」
「いつも僕に飲みながら教えて下さってる話をしていただけたら。」
「え〜、京都でね、みんな4人でまだジュリーが入ってなかったんですけどね。
4人で遊び友達だったんですよ。高校生で。」
「高校生で。その時はかつみさんと?」
「僕とあの〜岸部一徳森本太郎瞳みのる、この4人でね、遊び友達で
丁度ベンチャーズだとかエレキバンドが流行ってきた頃でですね。それであの
友達がバンドやってたんで、僕らも真似してみたいなと思って楽器を借りて
始めたのがきっかけですね。それで、まあ最初のことだからあんまり上手じゃ
ないんでね、演奏しながら歌を歌うってのが難しいんで沢田を引っ張ってきて
それで5人になって始めて少しして京都のロックバンドコンテストが京都会館
あったんです。それで優勝してナンバ一番に出るようになって、それでナンバ一番で
人気が出るようになって、東京の渡辺プロダクションと、スパイダクションですか?
あそこが来てたんですよね。それでデビューしたと。」

「その時はかつみさん、バンド名はタイガースじゃなかった・・・」
ファニーズって名前だった、ええ、僕がつけた名前ですね。」
「あ、そうですか。タイガースは誰がつけたんですか?」
「タイガースはあのー、ザ・ヒットパレードっていう番組があったんですね。
その時の番組のプロデューサーですぎやまこういちさん、あのータイガースの
色んな楽曲を含めてやってもらった先生ですけどね。すぎやまこういちさんの命名ですね。」
「はぁ〜、タイガース以来ジャガーズだとか色々名前がついたりして。」
「(笑)動物の名前が多かったね。」
「ちなみにかつみさんがゴージャスな衣装もデザインしてたと聞いたんですけど。」
「そうですね。」
「当時結構お金かけたと仰ってましたよね。いくらくらいの衣装だったんですか?」
「いや、もうあれは大変な衣装だと思いますね。東京に『ベビードール』っていう
洋服屋さんがありましてね、そこに川添梶子さんという方がいて、その方と
僕と一緒に色んなデザインをしたり素材選びをしたりね、色んなことして
計画してたんですよ。あの当時・・・今でも大変な額になると思いますよ。」
「そうですよね、前に仰ってましたよね?」
「あの〜、フランスのオートクチュールなんかと同じレベルのものなんでね。
一着100万円くらいとか、ええ・・・当時でもそうだったかな?」

ナベプロが出してくれたんですか?衣装代は。」
「あんまり全額は出してくれなくて(笑)川添梶子さんがポケットマネーで
出してくれたようですね。」
「まあ、でもね、リスナーの方も機会があったらジャケット見ていただきたいと
思いますがほんと、王子様というかナイトというかすごい衣装ですもんね。」
「うん、もう、あのベルベットでイタリアのシルクの最高級ベルベッドとかね(笑)
そういうものだから。“馬子にも衣装”ですね!(笑)」
「いえいえ、とんでもないですよルックスもみなさん抜群でしたし。
それとね、実はかつみさん、HPで見たんですがあの、加橋かつみさんが
謎に包まれているというHPがありましてね。」
「謎に包まれてる?(笑)」
「何故かというと、ユーミンを発掘したのは加橋かつみさんじゃないかという・・・」
「そうですよ。」
「それは事実ですか?」
「本当ですよ。」
「その辺のところを良ければ詳しく教えて頂きたいと。」
「僕ね、1969年の終りにニューヨークでブロードウェイミュージカルの『ヘアー』
というのを日本に持ってきたんですよ。僕と川添象郎さんと一緒にね。僕が主役を
して『ヘアー』ってミュージカルをやってたんですけども、そこにユーミン
毎日遊びに来てましたね。女子高生だったんです、セーラー服着て。」
「そこで音楽の才能を・・・」
「ええ、オオキヤスコさんの妹でね、シャンソン歌手の。僕の友達が
いたんですよ。その彼女がユーミンのお姉さんみたいでね。彼女にいつも
ユーミンがセーラー服着てくっついて来てました。」
「それが、芸能界デビューのきっかけになったということですよね。」
「そうですね、そこにやっぱりあの〜川添象郎さんっていうプロデューサーが
いたり村井邦彦さんってユーミンが始めたアルファレコードの社長だとかね、
みんないたりして。それでユーミンが曲書いてるっていうからじゃあ一曲書いてきてよ、って話でね。」
「で、書いてきてもらって」
「『愛は突然に』っていう曲を、ユーミンの曲なんですけどね、最初にレコーディングしてみて。それからですね。」
「そうですか〜。最近はお会いされてないんですかあまり?」
「う〜んそうですね、この頃ちょっと会ってないです。何年か前どこかで行き会ってみんなで
ミッキーカーチスさん、かまやつひろしさんと、ユーミンとあと
フォーククルセダーズの加藤さんと、僕とで“やぁ”みたいな話して(笑) 六本木で盛り上がったことがあるけど。」
「またこのスタジオにも一度遊びに来てくださいよ是非。」
「是非是非。神戸でしょ?」
「そうです。お好きな神戸ですから。」
「ねぇ、僕神戸大好きだもんね。学生の頃から大阪通過してよく行きましたよ。」
「いつもよく聞かせていただいております。またお待ちしておりますのでかつみさん、宜しくお願いします。」
「ねぇ、是非。」
「是非今度はスタジオで生で歌って下さい。」
「(笑)はーいこちらこそ♪」
「すいません、それでは忙しいところどうもありがとうございました。」
「ありがとう、元気でねー。」



「幻のミリオンセラー」
http://homepage1.nifty.com/shislabo/record/FILE_032.html

『花の首飾り」はオリコンランクイン内の記録では67.6万枚。


トッポのインタビューでは「140万枚」と・・・。
http://youtu.be/8qNS6wZwxd4(はいから万歳)
昔のことになると話が大きくなりますネ。

ナンバ一番出演のいきさつ
トッポ「京都のロックバンドコンテストが京都会館
あったんです。それで優勝してナンバ一番に出るようになって、それでナンバ一番で
人気が出るようになって・・・」とありますが、1月にオーディションを受けて合格し、ファニーズは2月にはナンバ一番に出演しています。
全関西エレキバンドコンテストは同年5月10日の開催ですので、記憶違いでありましょう。
ポール岡田氏も、自身がバンドの一員で出演したこのコンテスト、「優勝するとナンバ一番に出演できるコンテストで、ファニーズが優勝できたのは『あれは買収したんだよ』とかつみから聞いた」(2011.1)と言ってましたので、その後も記憶は訂正されることはなかったようです。
http://ameblo.jp/cbl22686/entry-10765527549.html


「キャンティ物語」と「アッコちゃんの時代」
http://machi.monokatari.jp/tayori/item_3661.html


これは時効と思って良いですね、ある日その店にアクセサリーを置いてる通称ザッパが「さっきタンタンが自殺したよ」って・・・誰1人もその事実を知らないのにと思い そしたら六本木の女王・・・風邪で亡くなると週刊誌に 第一発見者は猫の百代とお手伝いさん・・・1番悲しんだ男はかつみだ、1週間も食事が喉を通らないと、泣きはらした顔で・・私は黙っていつものようにコーヒーを入れ、まさかタンタンが亡くなったの?なんて聞けない、付き合っていたのは知っていた、女のプライドがあった・・・かつみの部屋は当時キャンティーの真裏で嫌だった スペイン村(通称)に住んでいた。まっ今日はこの辺で・・・しかしスペインに残して来た梶子さんの娘さんが気になります。ちなみにザッパは、すぐにNYにスポンサーと一緒に旅立ちましたとさ、終わり。」(コメント欄より抜粋)