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よしなしごとダイアリー

日常のあれこれをああでもないこうでもないと考える

長い箸の食堂

和風バイキングレストラン「柿安三尺三寸箸」の敷き紙にはこんな文章が書いてあるそうです。

昔、在る人が極楽を覗くと
極楽には、食卓の上に
すばらしいご馳走と長すぎて食べづらそうな
三尺もある箸が
置かれていました。
どのようにして食事をするのかと
興味深く見ていると、
三尺の長い箸でご馳走をつまむと
自分の口へ運ぶのではなく
向かい合っている相手の口へ運び
食べさせてあげていました。
相手も同じようにしてあげていました。
それはそれは楽しい食事風景でした。
”他人のために生きることによって、
自分も幸せになれる。”
という仏の教えが
「三尺三寸箸」の店名の由来です。

バイキングのお店でそんなこと言われたくないよなー、と思わないでもありません。

このおはなしい、極楽ではこのように楽しい様子ですが、地獄では長いお箸を譲り合わずに阿鼻叫喚の食事風景が繰り広げられるものだそうです。地獄と極楽の対比ですね。わたしの子供のころには聞いたことがなかったのでこの2、30年で広まってきたいわゆる「いい話」なんでしょうね。

「お道・天理教はわが身可愛い心を否定し、「互い扶けあい」を強調します。現代風に言えば自分も相手も共に勝つ互恵関係の「WIN-WIN」です。さらに申せば、近江商人の言う「お客」「社会」「自分」の三方が利益を得る「三方得」が商人の心得であり、亡き山田無文老師の「長い箸の食堂」の法話でしょう。
 この法話では、長い箸が括られた人間が食事をしている2つの食堂の姿が語られています。長い箸でしか食べ物を口にできない条件のもと、福よかで幸せそうな極楽食堂と、やせ細り眼がぎらついた地獄食堂の2通りの世界ができているという説話です。同じ条件なのに大きな違いが出るのは、一体何故?
 それは地獄食堂の住人は、自分だけが食べ物を手に入れようと長い箸でご馳走を掴むのですが、長すぎて口に届かず永遠に食べることができないでいる。反して極楽食堂の住人は、同じように長い箸で食べ物を掴むまでは、地獄の人間と同じですが、そこからが違います。掴んだ食べ物は自分の口に入れようとするのではなく、他人の口に入れる。そして同じような心を持つ他人も、必ず自分の口に食べ物を入れてくれる。それは自分の空腹を我慢して、他人を助ける自己犠牲を伴う欺瞞的な助け合いの世界ではではありません。」

天理教こうずい分教会より

地獄でもちゃんとご飯が提供されるあたり現代風ですね。

で、山田無文というおかたはどなたでしょうか?

「山田 無文(やまだ むもん、1900年7月16日 - 1988年12月24日)は昭和期日本の代表的禅僧。チベット探検で有名な河口慧海を頼って出家するが、あまりの厳しい生活に結核になってしまったというエピソードもある。わかり易い法話で親しまれた。」(ウィキペディアより)



晩年になってからのご本です。