よしなしごとダイアリー

日常のあれこれをああでもないこうでもないと考える

加橋かつみ

ウィキの原本



http://dictionary.sensagent.com/%E5%8A%A0%E6%A9%8B%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%BF/ja-ja/



略歴
ザ・タイガースのリードギター担当。タイガース在籍時代は澄んだ美声が評価され、シングル『花の首飾り』『廃虚の鳩』やアルバムでリードボーカルをも務めた。またグラフィックデザイナーを志していたこともあり耽美主義(唯美主義、審美主義、退廃的)な思想も相成ってグループの衣装をデザインするなど、バンドとして欠く事が出来ない存在だった。再結成時のヒット曲「色つきの女でいてくれよ」でもリードボーカルを務めた。その我侭で怠慢な性格から遅刻やステージの放棄など問題行動が多く、「ザ・タイガースブライアン・ジョーンズ」とも評され、特に現在に至るまで続いている沢田との不仲は当時からバンド内で大きな問題となっていた。

タイガース人気が絶頂を迎え、過密スケジュールが続き休みも取れないようになると、次第に「アイドル」としてのタイガースの在り方や事務所の方針、そしてその様な自分たちを受け入れ事務所の意向に忠実であろうとするメンバー(特に沢田は当時、マネージャーから『時計の針の様な男』と云われていた)への反発心を強めていく。この頃からメンバーやスタッフに脱退の意向を漏らすようになり、この件に対してミーティングの機会が増えていくようになる。

1969年3月5日、渋谷・斉藤楽器でのレッスン中に突如行方不明となり、ザ・タイガースは後任メンバーが決定するまでの間一切のスケジュールをキャンセルし、箱根に所有する渡辺プロダクションの別荘に篭り活動停止を余儀なくされる。そのまま加橋はタイガースを除名となり、結果として後任にはベース・岸部一徳の弟、岸部四郎がメンバーに決定。

当初は自発的な失踪と見られていたものの、後に加橋の意向を受けた渡辺プロダクションの画策による茶番劇だったことが発覚し、渡辺プロは謝罪会見を開く。加橋自身の意向とはいえ、アイドルとして一定の人気があった加橋を事実上解雇することでザ・タイガースの人気へ影響することを恐れた渡辺プロが、次なる加橋の受け入れ先としてフィリップス・レコードとの契約を取り持った上で「加橋の自発的失踪」という体裁を繕おうとしたものだった。ただし、この計画は極秘事項として加橋以外のメンバーおよびスタッフには全く知らされる事なく実行された。その為に他のメンバーは非常に困惑し、特に加橋と同じ様な疑問や思想を抱いていた瞳みのるにとって他のメンバーとの間に軋轢を生むきっかけとなってしまう(瞳も同年5月にヨーロッパへの失踪を試みるも、羽田空港で忘れ物に気付き自宅マンションへ戻った際、瞳を捜しに来ていた中井マネージャーと岸部一徳に鉢合わせしてしまう。2人より『9月に解散発表をするから!』と説得され『ここで辞めたら自分の負けとなる』と悟った瞳は、理不尽な渡辺プロ側へ謝罪し事態は穏便に終息する。渡辺プロ側は沢田以外の代わりは幾らでも居るという強硬姿勢だった。恋人だったフランス人女性が帰国した直後で、その事が行動を一気に加速させる要因でもあった)。

その後は母と共にパリに渡り、アルバム「パリ1969」を製作。同時に芸能雑誌にいくつかの手記を発表。「タイガースがやった仕事は『ヒューマン・ルネッサンス』(メンバー自作曲を含むコンセプトアルバム)だけだ。」「アイドルになんかなりたくない。」「僕は世界に通用する本物のアーティストを目指す。」といった言葉を残す。

帰国後、自身の夢をかなえるかのようにミュージカル「ヘアー」の日本版の製作・出演などを果たし、ソロアーティストとしての活躍を期待されるが、「ヘアー」公演中の1970年に大麻取締法違反容疑で逮捕(桜田門の警視庁へ留置されるも不起訴処分)、この件以降メディアが挙って書き立て人気は大きく下降し、所属先であるフィリップス・レコードは加橋の扱いに慎重となる。

1971年1月24日の日本武道館に於けるザ・タイガース解散コンサートの楽屋に突如現れ「花の首飾り」を歌わせてもらうことを懇願するも特に瞳みのる沢田研二の猛反発に遭い、出演は叶わなかった。

翌1972年初めには数ヶ月の家賃滞納、食事は大衆食堂(六本木食堂)でどうにか済ませられるという状況まで経済的に困窮する。

1975年 には、困窮の限界に達した加橋を見かねた元ザ・スパイダースのベーシスト加藤充の紹介で北島音楽事務所に所属し「哀哭」で演歌歌手として再デビューするも、1971年頃より顕著となった声の衰えもあってヒットはせず、翌年に解雇される。

以降、地道に歌手活動を続け、NHKのアニメ『ニルスのふしぎな旅』の主題歌や、フジテレビ系幼児教育番組『ひらけ!ポンキッキ』のオープニングテーマ『青い空白い雲』とエンディングの『かもめはそらを』などを歌い、以降現在までにシングル11枚・アルバム6枚をリリース。

1989年、タイガース・メモリアル・クラブ・バンドを森本太郎岸部四郎らと結成。

さらに、沢田研二のものまねでおなじみの岩本恭生ザ・タイガースの元メンバー・森本太郎岸部シローザ・タイガースマニアというバンドを1993年に結成し、「涙のロマンス」をリリースした。

経済的事由等に因り、1980年代後半頃からいわゆる懐メロ番組に出演して「花の首飾り」「廃墟の鳩」といったタイガース時代の持ち歌を歌うことが多くなる。しかしタイガースが嫌で脱退しメンバーやファンに対して大きな混乱を招いた加橋が、「元・タイガース」を前面に出し、あたかも「タイガースの顔」であったかの如くテレビとイベントの出演を繰り返すことに、元メンバーはおろかファンからの風当たりも強く、現在では僅かに交流があった森本太郎岸部四郎からも疎遠となっている。

ブライアン・ジョーンズ
http://www.eonet.ne.jp/~radical/yousetu03.htm

加藤充さんのインタビュー

http://www.geocities.jp/h_ichikun/kato5.htm



「そうしている内に、北原さんから、北島さんの手伝いに行ってくれと言う話になりまして、行ったら、丁度弟の大野専務が独立する準備をしていまして、(事務所の)絨毯張からやりました。そのうちにこっちの仕事も手伝ってくれと言うことになって、掛け持ちみたいになりました。

H:そのときに、加橋かつみさんが北島事務所に行ったんですか。

K:トッポを紹介したら、大野さんと意気投合してしまって、お互いの暗い過去の話になったり、「海の青さと空の青さは違うんだ。」なんて話になってきて、とても付いていけませんでしたよ(笑)

そのうちに北原じゅんさんが怒っちゃったんで、両方とも止めました。その後、アイジョージさんのマネジメントもやったんですが、最後の方は段々とちょっとね、やばくなってきたんで、半年で止めました。それからサラリーマンになったんです。

I:音楽関係の仕事はそこで終わりになったんですか。

K:北原事務所の時は新人を売り込むためにマチャアキに名前付けさせてグラビアの1ページに出したりとか、頑張ってやってたんですが、「カッペちゃん、なんかうろうろしてて目障りでいやだよ。」なんて嫌み言われちゃって、じゃあもう止めてやるって。その後ホテルの支配人とか紹介してくれたんですが、断って、自分で探すと言いましたね。他の人に迷惑掛けたくないからって。」





電脳サブカルマガジン 吉田豪 岸部シロー

http://www.ocn.ne.jp/game/og/go_yoshida/200707/index.html



68年発売のアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』ってまさか? ……と思って岸部シロー取材時に聞いたら、それは無関係だった模様。
そして、トロッグスの『恋のワイルド・シング』(大仁田の入場テーマの元ネタであり、ガレージの名曲!)をどうカヴァーするかで乱闘したり、遅刻の多いトッポとジュリーが殴り合い、「それ以来、2年ぐらいの間、沢田と口をきいたのは2、3度ぐらいでした」(トッポ)なんて確執があったりで、69年にトッポが脱退。代わりに岸部シローが加入し、71年に解散したわけだ。
中略

なお、巻末の森本太郎編集による年表も「66年12月15日、ピーの創価学会のことで中井マネージャーとミーティング」「67年11月3日、地方公演(高岡市)。この日は、トッポが朝寝坊をして公演地にとうとうこれなかった。プロのタレントとしては最低のことだと思う」「69年5月16日、ピーが突然蒸発しようとしたことが発覚して、中井マネージャーとサリーが説得」「69年7月15日、会社にボーナスを要求したが、結果的にはダメだった」なんてのが並ぶ異常なガチぶりだったりもする。最高!」



http://hanahuurin.blog62.fc2.com/blog-entry-414.html

加橋かつみインタビュー

http://www.geocities.jp/yoikonogs/(呆麒麟堂へようこそムーンナイトライブバックナンバー)



加橋かつみさんインタビュー
「もしもしー?」
「もしもーし。」
「かつみさーん、どうもお久しぶりでございます。」
「こんにちは。久しぶりだねぇ。」
「はい。去年のライブ以来で。」
「ねぇ。元気ですか?」
「はい、元気にしております。かつみさんも元気にされてますか?」
「元気ですよぉ、楽しくやってますよー(笑)」
「楽しく(笑)ね、あの、スーパーアイドルだったかつみさんに
電話させていただいてるわけですけども今日は。あの、一応GSアイラブユー
っていう番組なんですがやはりね、やはりGSといえば何を言ってもタイガースですから。」
「ありがとう。」
「あの、かつみさんね、ちょっと簡単でいいんですけどもタイガースの結成の歴史
なんていうのをありましたらあの、流れというか教えていただきたいんですけど。改めて。」
「タイガースの結成の歴史ですか?えぇ〜?随分古い話だね。」
「いつも僕に飲みながら教えて下さってる話をしていただけたら。」
「え〜、京都でね、みんな4人でまだジュリーが入ってなかったんですけどね。
4人で遊び友達だったんですよ。高校生で。」
「高校生で。その時はかつみさんと?」
「僕とあの〜岸部一徳森本太郎瞳みのる、この4人でね、遊び友達で
丁度ベンチャーズだとかエレキバンドが流行ってきた頃でですね。それであの
友達がバンドやってたんで、僕らも真似してみたいなと思って楽器を借りて
始めたのがきっかけですね。それで、まあ最初のことだからあんまり上手じゃ
ないんでね、演奏しながら歌を歌うってのが難しいんで沢田を引っ張ってきて
それで5人になって始めて少しして京都のロックバンドコンテストが京都会館
あったんです。それで優勝してナンバ一番に出るようになって、それでナンバ一番で
人気が出るようになって、東京の渡辺プロダクションと、スパイダクションですか?
あそこが来てたんですよね。それでデビューしたと。」

「その時はかつみさん、バンド名はタイガースじゃなかった・・・」
ファニーズって名前だった、ええ、僕がつけた名前ですね。」
「あ、そうですか。タイガースは誰がつけたんですか?」
「タイガースはあのー、ザ・ヒットパレードっていう番組があったんですね。
その時の番組のプロデューサーですぎやまこういちさん、あのータイガースの
色んな楽曲を含めてやってもらった先生ですけどね。すぎやまこういちさんの命名ですね。」
「はぁ〜、タイガース以来ジャガーズだとか色々名前がついたりして。」
「(笑)動物の名前が多かったね。」
「ちなみにかつみさんがゴージャスな衣装もデザインしてたと聞いたんですけど。」
「そうですね。」
「当時結構お金かけたと仰ってましたよね。いくらくらいの衣装だったんですか?」
「いや、もうあれは大変な衣装だと思いますね。東京に『ベビードール』っていう
洋服屋さんがありましてね、そこに川添梶子さんという方がいて、その方と
僕と一緒に色んなデザインをしたり素材選びをしたりね、色んなことして
計画してたんですよ。あの当時・・・今でも大変な額になると思いますよ。」
「そうですよね、前に仰ってましたよね?」
「あの〜、フランスのオートクチュールなんかと同じレベルのものなんでね。
一着100万円くらいとか、ええ・・・当時でもそうだったかな?」

ナベプロが出してくれたんですか?衣装代は。」
「あんまり全額は出してくれなくて(笑)川添梶子さんがポケットマネーで
出してくれたようですね。」
「まあ、でもね、リスナーの方も機会があったらジャケット見ていただきたいと
思いますがほんと、王子様というかナイトというかすごい衣装ですもんね。」
「うん、もう、あのベルベットでイタリアのシルクの最高級ベルベッドとかね(笑)
そういうものだから。“馬子にも衣装”ですね!(笑)」
「いえいえ、とんでもないですよルックスもみなさん抜群でしたし。
それとね、実はかつみさん、HPで見たんですがあの、加橋かつみさんが
謎に包まれているというHPがありましてね。」
「謎に包まれてる?(笑)」
「何故かというと、ユーミンを発掘したのは加橋かつみさんじゃないかという・・・」
「そうですよ。」
「それは事実ですか?」
「本当ですよ。」
「その辺のところを良ければ詳しく教えて頂きたいと。」
「僕ね、1969年の終りにニューヨークでブロードウェイミュージカルの『ヘアー』
というのを日本に持ってきたんですよ。僕と川添象郎さんと一緒にね。僕が主役を
して『ヘアー』ってミュージカルをやってたんですけども、そこにユーミン
毎日遊びに来てましたね。女子高生だったんです、セーラー服着て。」
「そこで音楽の才能を・・・」
「ええ、オオキヤスコさんの妹でね、シャンソン歌手の。僕の友達が
いたんですよ。その彼女がユーミンのお姉さんみたいでね。彼女にいつも
ユーミンがセーラー服着てくっついて来てました。」
「それが、芸能界デビューのきっかけになったということですよね。」
「そうですね、そこにやっぱりあの〜川添象郎さんっていうプロデューサーが
いたり村井邦彦さんってユーミンが始めたアルファレコードの社長だとかね、
みんないたりして。それでユーミンが曲書いてるっていうからじゃあ一曲書いてきてよ、って話でね。」
「で、書いてきてもらって」
「『愛は突然に』っていう曲を、ユーミンの曲なんですけどね、最初にレコーディングしてみて。それからですね。」
「そうですか〜。最近はお会いされてないんですかあまり?」
「う〜んそうですね、この頃ちょっと会ってないです。何年か前どこかで行き会ってみんなで
ミッキーカーチスさん、かまやつひろしさんと、ユーミンとあと
フォーククルセダーズの加藤さんと、僕とで“やぁ”みたいな話して(笑) 六本木で盛り上がったことがあるけど。」
「またこのスタジオにも一度遊びに来てくださいよ是非。」
「是非是非。神戸でしょ?」
「そうです。お好きな神戸ですから。」
「ねぇ、僕神戸大好きだもんね。学生の頃から大阪通過してよく行きましたよ。」
「いつもよく聞かせていただいております。またお待ちしておりますのでかつみさん、宜しくお願いします。」
「ねぇ、是非。」
「是非今度はスタジオで生で歌って下さい。」
「(笑)はーいこちらこそ♪」
「すいません、それでは忙しいところどうもありがとうございました。」
「ありがとう、元気でねー。」



「幻のミリオンセラー」
http://homepage1.nifty.com/shislabo/record/FILE_032.html

『花の首飾り」はオリコンランクイン内の記録では67.6万枚。


トッポのインタビューでは「140万枚」と・・・。
http://youtu.be/8qNS6wZwxd4(はいから万歳)
昔のことになると話が大きくなりますネ。

ナンバ一番出演のいきさつ
トッポ「京都のロックバンドコンテストが京都会館
あったんです。それで優勝してナンバ一番に出るようになって、それでナンバ一番で
人気が出るようになって・・・」とありますが、1月にオーディションを受けて合格し、ファニーズは2月にはナンバ一番に出演しています。
全関西エレキバンドコンテストは同年5月10日の開催ですので、記憶違いでありましょう。
ポール岡田氏も、自身がバンドの一員で出演したこのコンテスト、「優勝するとナンバ一番に出演できるコンテストで、ファニーズが優勝できたのは『あれは買収したんだよ』とかつみから聞いた」(2011.1)と言ってましたので、その後も記憶は訂正されることはなかったようです。
http://ameblo.jp/cbl22686/entry-10765527549.html


「キャンティ物語」と「アッコちゃんの時代」
http://machi.monokatari.jp/tayori/item_3661.html


これは時効と思って良いですね、ある日その店にアクセサリーを置いてる通称ザッパが「さっきタンタンが自殺したよ」って・・・誰1人もその事実を知らないのにと思い そしたら六本木の女王・・・風邪で亡くなると週刊誌に 第一発見者は猫の百代とお手伝いさん・・・1番悲しんだ男はかつみだ、1週間も食事が喉を通らないと、泣きはらした顔で・・私は黙っていつものようにコーヒーを入れ、まさかタンタンが亡くなったの?なんて聞けない、付き合っていたのは知っていた、女のプライドがあった・・・かつみの部屋は当時キャンティーの真裏で嫌だった スペイン村(通称)に住んでいた。まっ今日はこの辺で・・・しかしスペインに残して来た梶子さんの娘さんが気になります。ちなみにザッパは、すぐにNYにスポンサーと一緒に旅立ちましたとさ、終わり。」(コメント欄より抜粋)