よしなしごとダイアリー

日常のあれこれをああでもないこうでもないと考える

加橋かつみ

ウィキの原本



http://dictionary.sensagent.com/%E5%8A%A0%E6%A9%8B%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%BF/ja-ja/



略歴
ザ・タイガースのリードギター担当。タイガース在籍時代は澄んだ美声が評価され、シングル『花の首飾り』『廃虚の鳩』やアルバムでリードボーカルをも務めた。またグラフィックデザイナーを志していたこともあり耽美主義(唯美主義、審美主義、退廃的)な思想も相成ってグループの衣装をデザインするなど、バンドとして欠く事が出来ない存在だった。再結成時のヒット曲「色つきの女でいてくれよ」でもリードボーカルを務めた。その我侭で怠慢な性格から遅刻やステージの放棄など問題行動が多く、「ザ・タイガースブライアン・ジョーンズ」とも評され、特に現在に至るまで続いている沢田との不仲は当時からバンド内で大きな問題となっていた。

タイガース人気が絶頂を迎え、過密スケジュールが続き休みも取れないようになると、次第に「アイドル」としてのタイガースの在り方や事務所の方針、そしてその様な自分たちを受け入れ事務所の意向に忠実であろうとするメンバー(特に沢田は当時、マネージャーから『時計の針の様な男』と云われていた)への反発心を強めていく。この頃からメンバーやスタッフに脱退の意向を漏らすようになり、この件に対してミーティングの機会が増えていくようになる。

1969年3月5日、渋谷・斉藤楽器でのレッスン中に突如行方不明となり、ザ・タイガースは後任メンバーが決定するまでの間一切のスケジュールをキャンセルし、箱根に所有する渡辺プロダクションの別荘に篭り活動停止を余儀なくされる。そのまま加橋はタイガースを除名となり、結果として後任にはベース・岸部一徳の弟、岸部四郎がメンバーに決定。

当初は自発的な失踪と見られていたものの、後に加橋の意向を受けた渡辺プロダクションの画策による茶番劇だったことが発覚し、渡辺プロは謝罪会見を開く。加橋自身の意向とはいえ、アイドルとして一定の人気があった加橋を事実上解雇することでザ・タイガースの人気へ影響することを恐れた渡辺プロが、次なる加橋の受け入れ先としてフィリップス・レコードとの契約を取り持った上で「加橋の自発的失踪」という体裁を繕おうとしたものだった。ただし、この計画は極秘事項として加橋以外のメンバーおよびスタッフには全く知らされる事なく実行された。その為に他のメンバーは非常に困惑し、特に加橋と同じ様な疑問や思想を抱いていた瞳みのるにとって他のメンバーとの間に軋轢を生むきっかけとなってしまう(瞳も同年5月にヨーロッパへの失踪を試みるも、羽田空港で忘れ物に気付き自宅マンションへ戻った際、瞳を捜しに来ていた中井マネージャーと岸部一徳に鉢合わせしてしまう。2人より『9月に解散発表をするから!』と説得され『ここで辞めたら自分の負けとなる』と悟った瞳は、理不尽な渡辺プロ側へ謝罪し事態は穏便に終息する。渡辺プロ側は沢田以外の代わりは幾らでも居るという強硬姿勢だった。恋人だったフランス人女性が帰国した直後で、その事が行動を一気に加速させる要因でもあった)。

その後は母と共にパリに渡り、アルバム「パリ1969」を製作。同時に芸能雑誌にいくつかの手記を発表。「タイガースがやった仕事は『ヒューマン・ルネッサンス』(メンバー自作曲を含むコンセプトアルバム)だけだ。」「アイドルになんかなりたくない。」「僕は世界に通用する本物のアーティストを目指す。」といった言葉を残す。

帰国後、自身の夢をかなえるかのようにミュージカル「ヘアー」の日本版の製作・出演などを果たし、ソロアーティストとしての活躍を期待されるが、「ヘアー」公演中の1970年に大麻取締法違反容疑で逮捕(桜田門の警視庁へ留置されるも不起訴処分)、この件以降メディアが挙って書き立て人気は大きく下降し、所属先であるフィリップス・レコードは加橋の扱いに慎重となる。

1971年1月24日の日本武道館に於けるザ・タイガース解散コンサートの楽屋に突如現れ「花の首飾り」を歌わせてもらうことを懇願するも特に瞳みのる沢田研二の猛反発に遭い、出演は叶わなかった。

翌1972年初めには数ヶ月の家賃滞納、食事は大衆食堂(六本木食堂)でどうにか済ませられるという状況まで経済的に困窮する。

1975年 には、困窮の限界に達した加橋を見かねた元ザ・スパイダースのベーシスト加藤充の紹介で北島音楽事務所に所属し「哀哭」で演歌歌手として再デビューするも、1971年頃より顕著となった声の衰えもあってヒットはせず、翌年に解雇される。

以降、地道に歌手活動を続け、NHKのアニメ『ニルスのふしぎな旅』の主題歌や、フジテレビ系幼児教育番組『ひらけ!ポンキッキ』のオープニングテーマ『青い空白い雲』とエンディングの『かもめはそらを』などを歌い、以降現在までにシングル11枚・アルバム6枚をリリース。

1989年、タイガース・メモリアル・クラブ・バンドを森本太郎岸部四郎らと結成。

さらに、沢田研二のものまねでおなじみの岩本恭生ザ・タイガースの元メンバー・森本太郎岸部シローザ・タイガースマニアというバンドを1993年に結成し、「涙のロマンス」をリリースした。

経済的事由等に因り、1980年代後半頃からいわゆる懐メロ番組に出演して「花の首飾り」「廃墟の鳩」といったタイガース時代の持ち歌を歌うことが多くなる。しかしタイガースが嫌で脱退しメンバーやファンに対して大きな混乱を招いた加橋が、「元・タイガース」を前面に出し、あたかも「タイガースの顔」であったかの如くテレビとイベントの出演を繰り返すことに、元メンバーはおろかファンからの風当たりも強く、現在では僅かに交流があった森本太郎岸部四郎からも疎遠となっている。

ブライアン・ジョーンズ
http://www.eonet.ne.jp/~radical/yousetu03.htm

加藤充さんのインタビュー

http://www.geocities.jp/h_ichikun/kato5.htm



「そうしている内に、北原さんから、北島さんの手伝いに行ってくれと言う話になりまして、行ったら、丁度弟の大野専務が独立する準備をしていまして、(事務所の)絨毯張からやりました。そのうちにこっちの仕事も手伝ってくれと言うことになって、掛け持ちみたいになりました。

H:そのときに、加橋かつみさんが北島事務所に行ったんですか。

K:トッポを紹介したら、大野さんと意気投合してしまって、お互いの暗い過去の話になったり、「海の青さと空の青さは違うんだ。」なんて話になってきて、とても付いていけませんでしたよ(笑)

そのうちに北原じゅんさんが怒っちゃったんで、両方とも止めました。その後、アイジョージさんのマネジメントもやったんですが、最後の方は段々とちょっとね、やばくなってきたんで、半年で止めました。それからサラリーマンになったんです。

I:音楽関係の仕事はそこで終わりになったんですか。

K:北原事務所の時は新人を売り込むためにマチャアキに名前付けさせてグラビアの1ページに出したりとか、頑張ってやってたんですが、「カッペちゃん、なんかうろうろしてて目障りでいやだよ。」なんて嫌み言われちゃって、じゃあもう止めてやるって。その後ホテルの支配人とか紹介してくれたんですが、断って、自分で探すと言いましたね。他の人に迷惑掛けたくないからって。」





電脳サブカルマガジン 吉田豪 岸部シロー

http://www.ocn.ne.jp/game/og/go_yoshida/200707/index.html



68年発売のアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』ってまさか? ……と思って岸部シロー取材時に聞いたら、それは無関係だった模様。
そして、トロッグスの『恋のワイルド・シング』(大仁田の入場テーマの元ネタであり、ガレージの名曲!)をどうカヴァーするかで乱闘したり、遅刻の多いトッポとジュリーが殴り合い、「それ以来、2年ぐらいの間、沢田と口をきいたのは2、3度ぐらいでした」(トッポ)なんて確執があったりで、69年にトッポが脱退。代わりに岸部シローが加入し、71年に解散したわけだ。
中略

なお、巻末の森本太郎編集による年表も「66年12月15日、ピーの創価学会のことで中井マネージャーとミーティング」「67年11月3日、地方公演(高岡市)。この日は、トッポが朝寝坊をして公演地にとうとうこれなかった。プロのタレントとしては最低のことだと思う」「69年5月16日、ピーが突然蒸発しようとしたことが発覚して、中井マネージャーとサリーが説得」「69年7月15日、会社にボーナスを要求したが、結果的にはダメだった」なんてのが並ぶ異常なガチぶりだったりもする。最高!」



http://hanahuurin.blog62.fc2.com/blog-entry-414.html

加橋かつみインタビュー

http://www.geocities.jp/yoikonogs/(呆麒麟堂へようこそムーンナイトライブバックナンバー)



加橋かつみさんインタビュー
「もしもしー?」
「もしもーし。」
「かつみさーん、どうもお久しぶりでございます。」
「こんにちは。久しぶりだねぇ。」
「はい。去年のライブ以来で。」
「ねぇ。元気ですか?」
「はい、元気にしております。かつみさんも元気にされてますか?」
「元気ですよぉ、楽しくやってますよー(笑)」
「楽しく(笑)ね、あの、スーパーアイドルだったかつみさんに
電話させていただいてるわけですけども今日は。あの、一応GSアイラブユー
っていう番組なんですがやはりね、やはりGSといえば何を言ってもタイガースですから。」
「ありがとう。」
「あの、かつみさんね、ちょっと簡単でいいんですけどもタイガースの結成の歴史
なんていうのをありましたらあの、流れというか教えていただきたいんですけど。改めて。」
「タイガースの結成の歴史ですか?えぇ〜?随分古い話だね。」
「いつも僕に飲みながら教えて下さってる話をしていただけたら。」
「え〜、京都でね、みんな4人でまだジュリーが入ってなかったんですけどね。
4人で遊び友達だったんですよ。高校生で。」
「高校生で。その時はかつみさんと?」
「僕とあの〜岸部一徳森本太郎瞳みのる、この4人でね、遊び友達で
丁度ベンチャーズだとかエレキバンドが流行ってきた頃でですね。それであの
友達がバンドやってたんで、僕らも真似してみたいなと思って楽器を借りて
始めたのがきっかけですね。それで、まあ最初のことだからあんまり上手じゃ
ないんでね、演奏しながら歌を歌うってのが難しいんで沢田を引っ張ってきて
それで5人になって始めて少しして京都のロックバンドコンテストが京都会館
あったんです。それで優勝してナンバ一番に出るようになって、それでナンバ一番で
人気が出るようになって、東京の渡辺プロダクションと、スパイダクションですか?
あそこが来てたんですよね。それでデビューしたと。」

「その時はかつみさん、バンド名はタイガースじゃなかった・・・」
ファニーズって名前だった、ええ、僕がつけた名前ですね。」
「あ、そうですか。タイガースは誰がつけたんですか?」
「タイガースはあのー、ザ・ヒットパレードっていう番組があったんですね。
その時の番組のプロデューサーですぎやまこういちさん、あのータイガースの
色んな楽曲を含めてやってもらった先生ですけどね。すぎやまこういちさんの命名ですね。」
「はぁ〜、タイガース以来ジャガーズだとか色々名前がついたりして。」
「(笑)動物の名前が多かったね。」
「ちなみにかつみさんがゴージャスな衣装もデザインしてたと聞いたんですけど。」
「そうですね。」
「当時結構お金かけたと仰ってましたよね。いくらくらいの衣装だったんですか?」
「いや、もうあれは大変な衣装だと思いますね。東京に『ベビードール』っていう
洋服屋さんがありましてね、そこに川添梶子さんという方がいて、その方と
僕と一緒に色んなデザインをしたり素材選びをしたりね、色んなことして
計画してたんですよ。あの当時・・・今でも大変な額になると思いますよ。」
「そうですよね、前に仰ってましたよね?」
「あの〜、フランスのオートクチュールなんかと同じレベルのものなんでね。
一着100万円くらいとか、ええ・・・当時でもそうだったかな?」

ナベプロが出してくれたんですか?衣装代は。」
「あんまり全額は出してくれなくて(笑)川添梶子さんがポケットマネーで
出してくれたようですね。」
「まあ、でもね、リスナーの方も機会があったらジャケット見ていただきたいと
思いますがほんと、王子様というかナイトというかすごい衣装ですもんね。」
「うん、もう、あのベルベットでイタリアのシルクの最高級ベルベッドとかね(笑)
そういうものだから。“馬子にも衣装”ですね!(笑)」
「いえいえ、とんでもないですよルックスもみなさん抜群でしたし。
それとね、実はかつみさん、HPで見たんですがあの、加橋かつみさんが
謎に包まれているというHPがありましてね。」
「謎に包まれてる?(笑)」
「何故かというと、ユーミンを発掘したのは加橋かつみさんじゃないかという・・・」
「そうですよ。」
「それは事実ですか?」
「本当ですよ。」
「その辺のところを良ければ詳しく教えて頂きたいと。」
「僕ね、1969年の終りにニューヨークでブロードウェイミュージカルの『ヘアー』
というのを日本に持ってきたんですよ。僕と川添象郎さんと一緒にね。僕が主役を
して『ヘアー』ってミュージカルをやってたんですけども、そこにユーミン
毎日遊びに来てましたね。女子高生だったんです、セーラー服着て。」
「そこで音楽の才能を・・・」
「ええ、オオキヤスコさんの妹でね、シャンソン歌手の。僕の友達が
いたんですよ。その彼女がユーミンのお姉さんみたいでね。彼女にいつも
ユーミンがセーラー服着てくっついて来てました。」
「それが、芸能界デビューのきっかけになったということですよね。」
「そうですね、そこにやっぱりあの〜川添象郎さんっていうプロデューサーが
いたり村井邦彦さんってユーミンが始めたアルファレコードの社長だとかね、
みんないたりして。それでユーミンが曲書いてるっていうからじゃあ一曲書いてきてよ、って話でね。」
「で、書いてきてもらって」
「『愛は突然に』っていう曲を、ユーミンの曲なんですけどね、最初にレコーディングしてみて。それからですね。」
「そうですか〜。最近はお会いされてないんですかあまり?」
「う〜んそうですね、この頃ちょっと会ってないです。何年か前どこかで行き会ってみんなで
ミッキーカーチスさん、かまやつひろしさんと、ユーミンとあと
フォーククルセダーズの加藤さんと、僕とで“やぁ”みたいな話して(笑) 六本木で盛り上がったことがあるけど。」
「またこのスタジオにも一度遊びに来てくださいよ是非。」
「是非是非。神戸でしょ?」
「そうです。お好きな神戸ですから。」
「ねぇ、僕神戸大好きだもんね。学生の頃から大阪通過してよく行きましたよ。」
「いつもよく聞かせていただいております。またお待ちしておりますのでかつみさん、宜しくお願いします。」
「ねぇ、是非。」
「是非今度はスタジオで生で歌って下さい。」
「(笑)はーいこちらこそ♪」
「すいません、それでは忙しいところどうもありがとうございました。」
「ありがとう、元気でねー。」



「幻のミリオンセラー」
http://homepage1.nifty.com/shislabo/record/FILE_032.html

『花の首飾り」はオリコンランクイン内の記録では67.6万枚。


トッポのインタビューでは「140万枚」と・・・。
http://youtu.be/8qNS6wZwxd4(はいから万歳)
昔のことになると話が大きくなりますネ。

ナンバ一番出演のいきさつ
トッポ「京都のロックバンドコンテストが京都会館
あったんです。それで優勝してナンバ一番に出るようになって、それでナンバ一番で
人気が出るようになって・・・」とありますが、1月にオーディションを受けて合格し、ファニーズは2月にはナンバ一番に出演しています。
全関西エレキバンドコンテストは同年5月10日の開催ですので、記憶違いでありましょう。
ポール岡田氏も、自身がバンドの一員で出演したこのコンテスト、「優勝するとナンバ一番に出演できるコンテストで、ファニーズが優勝できたのは『あれは買収したんだよ』とかつみから聞いた」(2011.1)と言ってましたので、その後も記憶は訂正されることはなかったようです。
http://ameblo.jp/cbl22686/entry-10765527549.html


「キャンティ物語」と「アッコちゃんの時代」
http://machi.monokatari.jp/tayori/item_3661.html


これは時効と思って良いですね、ある日その店にアクセサリーを置いてる通称ザッパが「さっきタンタンが自殺したよ」って・・・誰1人もその事実を知らないのにと思い そしたら六本木の女王・・・風邪で亡くなると週刊誌に 第一発見者は猫の百代とお手伝いさん・・・1番悲しんだ男はかつみだ、1週間も食事が喉を通らないと、泣きはらした顔で・・私は黙っていつものようにコーヒーを入れ、まさかタンタンが亡くなったの?なんて聞けない、付き合っていたのは知っていた、女のプライドがあった・・・かつみの部屋は当時キャンティーの真裏で嫌だった スペイン村(通称)に住んでいた。まっ今日はこの辺で・・・しかしスペインに残して来た梶子さんの娘さんが気になります。ちなみにザッパは、すぐにNYにスポンサーと一緒に旅立ちましたとさ、終わり。」(コメント欄より抜粋)


ところてんは一本箸で

謎解きところてん(完結編)(百楽天の百花繚乱書院2009-09-21


和菓子の「ようじ」に由来 ところてんの一本ばし (中日新聞 2006.8.7)


ところてんは子供のころ駄菓子屋さんで売っているおやつでした。


10円を握って近所の駄菓子屋さんへ行くとおばちゃんがところてん突きで四角いところてんをついてくれ、麺状になったそれに酢醤油をかけてくれます。(あの道具はとても魅力的で、自分でもところてんを作ってみたくなったものでした)


これについてくるのは一本だけのお箸でした。割り箸を割って片方だけでしたが、大人がいうには『ところてんは割りばしで挟むと切れてしまうから一本で食べる』のだそうです。安価な食べ物なので割り箸を一膳使うのがもったいなかったのかもしれません。


中日新聞の記事によると
「伊藤さんの回答はこうだ。「ところてんは和菓子ですから、和菓子は茶道で使う大きめの黒いつまようじ『黒文字』で食べるもの。そのため黒文字に置き換えて家庭などでははし1本で食べるようになったと思われます」。なるほど。ちなみに、はし1本で食べている地域は愛知県のほかに、群馬県福島県新潟県があるという」


へえ、そうなんだ。栃木県でもうちの地域では一本箸でしたよ。群馬と福島がそうなんだから中間の栃木がそうであっても不思議ではないですね。調べてみるともっと分布しているかもしれません。

蓮の花はポンと音を立てるか

蓮の花の咲くときにはポンという音がして、その音を聞くと幸せになれるのだという話があるそうでございます。


「一、蓮の開花の音を聽ば、蓮の臺に上る事が出來る。即ち、死後地嶽へ墮ちず、成佛ができると言傳へられ、又
一、それを聞ば必ず、其人一代の開運は必定であると申し居ました。仍て愚生達も少年時代迄は、此地津輕公の、現に公園と成居る鷹場園の壕や、市内革秀寺池の蓮花の開くを見、且つ聞きに、早朝夜も碌に明ぬ内から出掛て往た者で、目下はどうかよく知ませぬが、愚生の幼時迄は、其を視聽する人達で、濠も池も一杯だつた[#「一杯だつた」は底本では「一抔だつた」]事は、絶對間違ひのない事實で有ました。で有ますから、愚見を述ますと、相場師などには、持てこいのお呪で、縁起をかつぐので無かと推察しますが、死だ老祖母から聽た事は、必ず記臆違ひなく、確信して居ます。下略。」
南方熊楠「蓮の花開く音を聽く事」 より)



ふっくらしたつぼみは、はじけそうな、いかにも音がしそうな形ではありますが、ホウセンカと違って、中身はきちんと幾重にもたたまれた花弁なので、構造的にも音は出そうにありません。実際咲くときには非常にゆっくりとつぼみがほどけ、数時間かけて咲くそうです。



http://blog.goo.ne.jp/marumo_chan/e/4d7eeb50a98635cd0e7daffebeeb29b7
蓮の花ポン!まるも日記2006.8.21


「音の出所はどうも水中らしいということで
水中カメラを蓮の下にもぐらす…

カメラが捕らえたのは…

「パツっ!」鳴った瞬間、
なんと魚が蓮の葉を下から突いていたのです!

琵琶湖に住むブルーギル
蓮の葉の上にいる虫を見つけて食べるときに
葉を突いて破る音だったのですよ。
確かに音と共に葉っぱに穴があいてました。

朝によく聞こえるのは
日が昇って明るくなってくることで
ブルーギルが虫を発見しやすくなるからなんだって。」(以上引用)



http://kayoko2.exblog.jp/4443658/
蓮の花が咲くときに音がする?琵琶湖から32006.10.6



蓮の花が咲くときに音がする?

蓮の花が咲くときに音がするかどうか・・・という質問が、
こちらにも何回かありました。
その時は私は「咲くときは音はしない」と聞いていると答えました。
先日、蓮で有名な草津市立水生植物公園みずの森の発行している
みずの森だよりにその件について記載があったので
一部引用させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  蓮の花が咲くときにポンと音がするかどうか・・・
  真実を解明する調査でNHK大津放送局に協力しました。
  当園は開花1日目の花の選定と花からは音がしないという
  確認の立会いをしました。
  音は水面でするのですが、この時撮影されたビデオから、
  烏丸半島での開花音の原因がブルーギルという魚であることが、
  琵琶湖博物館の水族担当の学芸員によって結論付けられました 。

(以上引用)




ブルーギルですか・・・・。この辺のため池では別の魚類かもしれませんね。とりあえず、音の主がわかってよかったのでした。

ご用意してございます

最近は売り場のアナウンスでマネージャーが自ら読み上げることが多くなった気がします。


衣料品のマネージャーが若くて元気がいいんだけど、


「只今のお時間より、15分間のみのタイムセールとして、売り場のコーナーの商品を全品半額!全品半額でございます!
お買い得の品を沢山ご用意してございます!ぜひこのチャンスをお見逃しなく、2階衣料品売り場にお越しくださいませ!」


と力いっぱい放送で言うので、その言葉づかいはなんなんだ、と思ってしまうのですね。


「ご用意してございます」


って、おかしくないですか。


「お/ご〜する/いたす/申し上げる」は謙譲語です。「ご用意する」はお客様の為に用意しました、と自分の行為を下げて言っているわけですね。自分の動作に対して言っている言葉なのに最後に「ございます」で持ち上げているので、おかしいわけです。




正しい言い方なら「ご用意しております」で、


私の感覚だと、普通に「用意しています」でも充分です。


ああ、ちょっと物足りないですか?

講演料はおいくら?

【ギャラランキング】


「150万-200万円」 が「がばいばあちゃん」で人気の島田洋七。年間講演をこなすとか。アグネス・チャンも100万円とか。


そのほかは


■特S130万-160万円 桂文珍



■S100万-130万円 田原総一朗 浜田幸一 アグネス・チャン なかにし礼 花田勝 松居一代 西川きよし 草野仁 福留功男



■A80万-100万円 ケーシー高峰 宮川花子 小谷実可子 野口健 由美かおる 大山のぶ代 佐々淳行 中島誠之助



■B50万-80万円 三宅久之 衣笠祥雄 益子直美 大林素子 木場弘子 柳生博 西川ヘレン 浜美枝 ジョージ・フィールズ 海原純子 金美齢



■C30万-50万円 逸見晴恵 松野明美 辛坊治郎 露木茂 加藤みどり 香山リカ 杉山邦博 樋口恵子 平尾誠二



■D10万-30万円 三反園訓 塚原光男 田慎一郎 志方俊之



■別20万-150万円 C・W・ニコル 海老名香葉子 向井亜紀 高木美保 西川史子 石原良純 田嶋陽子 畑正憲 板東英二 (パワービーンズ社見積額)



 パワービーンズ社(講師派遣業)


長い箸の食堂

和風バイキングレストラン「柿安三尺三寸箸」の敷き紙にはこんな文章が書いてあるそうです。

昔、在る人が極楽を覗くと
極楽には、食卓の上に
すばらしいご馳走と長すぎて食べづらそうな
三尺もある箸が
置かれていました。
どのようにして食事をするのかと
興味深く見ていると、
三尺の長い箸でご馳走をつまむと
自分の口へ運ぶのではなく
向かい合っている相手の口へ運び
食べさせてあげていました。
相手も同じようにしてあげていました。
それはそれは楽しい食事風景でした。
”他人のために生きることによって、
自分も幸せになれる。”
という仏の教えが
「三尺三寸箸」の店名の由来です。

バイキングのお店でそんなこと言われたくないよなー、と思わないでもありません。

このおはなしい、極楽ではこのように楽しい様子ですが、地獄では長いお箸を譲り合わずに阿鼻叫喚の食事風景が繰り広げられるものだそうです。地獄と極楽の対比ですね。わたしの子供のころには聞いたことがなかったのでこの2、30年で広まってきたいわゆる「いい話」なんでしょうね。

「お道・天理教はわが身可愛い心を否定し、「互い扶けあい」を強調します。現代風に言えば自分も相手も共に勝つ互恵関係の「WIN-WIN」です。さらに申せば、近江商人の言う「お客」「社会」「自分」の三方が利益を得る「三方得」が商人の心得であり、亡き山田無文老師の「長い箸の食堂」の法話でしょう。
 この法話では、長い箸が括られた人間が食事をしている2つの食堂の姿が語られています。長い箸でしか食べ物を口にできない条件のもと、福よかで幸せそうな極楽食堂と、やせ細り眼がぎらついた地獄食堂の2通りの世界ができているという説話です。同じ条件なのに大きな違いが出るのは、一体何故?
 それは地獄食堂の住人は、自分だけが食べ物を手に入れようと長い箸でご馳走を掴むのですが、長すぎて口に届かず永遠に食べることができないでいる。反して極楽食堂の住人は、同じように長い箸で食べ物を掴むまでは、地獄の人間と同じですが、そこからが違います。掴んだ食べ物は自分の口に入れようとするのではなく、他人の口に入れる。そして同じような心を持つ他人も、必ず自分の口に食べ物を入れてくれる。それは自分の空腹を我慢して、他人を助ける自己犠牲を伴う欺瞞的な助け合いの世界ではではありません。」

天理教こうずい分教会より

地獄でもちゃんとご飯が提供されるあたり現代風ですね。

で、山田無文というおかたはどなたでしょうか?

「山田 無文(やまだ むもん、1900年7月16日 - 1988年12月24日)は昭和期日本の代表的禅僧。チベット探検で有名な河口慧海を頼って出家するが、あまりの厳しい生活に結核になってしまったというエピソードもある。わかり易い法話で親しまれた。」(ウィキペディアより)



晩年になってからのご本です。

「暦と日本人」

「暦と日本人」(内田正男著)をひもとくと、



今使われている太陽暦に変えられたのが明治6年です。この辺りは実にあわただしく改歴のお触れが出たので、実は公務員の月給を1カ月節約するためだったと言われてます。



「明治5年の改暦の詔書によって、それら(暦注のこと)は妄誕無稽(もうたんむけい)として一挙に禁止され民衆の間からほぼ消えさっていった。迷信禁止の網の目をくぐり、明治10年代の後半ごろから、いつの間にか1枚刷りの暦などに恐る恐る登場してきたのが、この六曜なのである。」



六曜の由来

六曜星は暦には載っていなかったけれど、江戸時代に全然なかったわけではない。もともと、この原型は、多くの迷信と同様に、中国生まれで、中国で小六壬(しょうりくじん)と呼ばれていた。



小吉・空亡・大安・留連・速喜・赤口



の6つを今の六曜のように配していたが、根拠のない?迷信として中国では数百年も前に暦書から姿を消したものと言われている。

 これが鎌倉時代の末期頃に伝えられたのがすこしづつ字を変え、いつのまにか今のように変形してきたものである。ほぼ現在を同じものが出ているもっとも古い文献は延享4(1747)年編の『万暦両面鑑』であるが、仏滅は物滅と書かれている。



本書にこれからもたびたび引用する『循環暦』という有名な暦注解説書を、正徳2(1712)年に書いている小泉松卓の『頭書長暦』には、大安則吉の日取のことと言う項があって

大安(吉日)・立連(悪日)・速吉(善日)・赤口(悪日)・小吉(幸日)・虚妄(悪日)

の6つを六曜と同様に配当することになっていた。

 ずっと下って『安政雑書万暦大全』にも、仏滅が物滅になってる以外は現在と同じものが示されているが、他の暦注と比べて六曜の文献は大変少ない」



「旧暦で読み解く日本の習わし」によると、六曜の変遷は次の通り。



中国式六壬時課 大安(泰安)・留連(るれん)・速喜・赤口・小吉・空亡

日本 頭書長暦 大安・立連(るれん)・速吉・赤口・小吉・虚妄

日本 安政雑書 先勝・友引・先負・物滅・泰安・赤口

日本 現在の暦 先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口



赤口」というのだけはなぜかずっと変わってませんね。赤の字が入っているので、血を連想して刃物に注意と言われたりするそうですが、安政雑書によると、

「此の日もあく日なり、よろず忌むべし、ただし、うまのとき1ときさわりなし」

なんだそうです。

「うまのとき」というのは午前11時〜午後1時のあたりです。暦によっては『正午だけ吉』などと書いてあるのはこのためでしょう。


暦注が禁止になると暦販売の業者さんが書くことがなくなって困るので、こそーり六曜など拾いだしてきたわけです。旧暦だといまの7曜日と同様にが六曜が繰り返されるだけですが、太陽暦に組み込むことで旧暦の一日ごとに順番が変わるのが魔術的で由所ありげに見えて、人気を博しました。




むかし暮れの市や正月の露店で大人たちが「高島暦」などを買い求めるのを不思議に思いましたが、こういったものの需要ってあるんですよね。今は言論の自由がありますから、迷信だからと言って本の出版を差し止めることはできませぬ。